衝撃の最後から33年・・・それでも未だ慕われ続ける「永遠の18歳」岡田有希子。最盛期の松田聖子を凌ぐ人気を誇ったトップアイドルが「死のダイブ」を選んだその理由とは?。

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その瞬間・・・日本列島全体が凍り付いた

引用:https://spice.eplus.jp/articles/131958

その日は、朝から上天気だった。

当時、東京・四谷四丁目の交差点角のビルにあった大手芸能プロダクション「サン・ミュージック」の事務所内は、朝からざわついていた。

オリコン第一位を獲得した「くちびるNetwork」を引っ提げ全国ツアー中だった所属のアイドル歌手・岡田有希子が、東京・北青山の自宅で自殺未遂を図ったと一報が「サン・ミュージック」へ入ったのは未明の事。

駆け付けた事務所関係者が見たものは、自宅のガス栓を開け、リストカットを図り、押し入れの下で泣いていた岡田の姿であった。

彼女は直ぐに事務所へと移され、付き人の女性と共に一室で過ごすこととなった。

周囲では、トップアイドルの自殺未遂を聞きつけたマスコミ各社が押し寄せ、辺りは騒然と化していた。

何とかして事情を聴き出さねばならない・・・が、しかし当時社長の相澤秀禎(故人)は「今はそっとしておいた方が良い。」と気遣い、夕方から夜にかけ彼女を堀越高校を卒業するまで下宿替わりで住まわせていた相澤の自宅へ移させる準備が進められていた。

昼前、岡田は付き人の女性に「トイレへ行きたい」と断って、部屋の外へ出た。

事務所では、マスコミ各社への対応に追われる一方、岡田が朝から何も食べていない事を心配し、昼食を取らせる準備を始めようとしていた・・・その時、

「ユッコ(岡田)が居ない!トイレに出たまま戻ってこない!!」蒼白になった付き人が、事務所へ駈け込んで来た。

その言葉に事務所は大混乱に陥り、辺りに居た関係者が総出でビルの上下を駈けずり回り、岡田の行方を追った。

やがてひと時が経ち、探し疲れた関係者が事務所に三々五々集まり始めたその瞬間・・・

「ドン!」と鈍い音と男女の悲鳴にも似た絶叫が、事務所下の路上から沸き上がった。

「まさか・・・」窓から顔を覗かせ見た下の路上には、保護された当時の姿の彼女が横たわっていた・・・「サン・ミュージック」の誰もが「最悪の事態」と認識するのに時間は掛からなかった。

時に1986(昭和61)年4月8日、午後12時15分・・・日本列島全体が凍り付いた瞬間である。

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報道を巡るマスコミ各社の混乱と相次ぐ後追い自殺

引用:https://www.youtube.com/watch?v=B7cPgL70fHo

ご覧頂いているYoutubeの画像は、当時の東京12チャンネル(現・テレビ東京)・昼ワイド「酒井宏のうわさのスタジオ」で、岡田の自殺未遂報道を受け現地で取材中だったレポーターの梨元勝(故人)氏が、偶然にも自殺現場に遭遇し、そこから「サン・ミュージック」本社内で当時の相澤社長などへインタビューを行った貴重な映像である。

今同じことをやったら、間違いなくオウムの時のTBSじゃないけど、放送自粛か放送停止処分食らうだろうな。と、何時も取材に協力してくれる芸能レポーター&芸能ライター諸氏は口を揃えて言う。

ところで当時、岡田有希子の自殺報道を巡って、報道各社の対応が割れた。

殆どの民放各社・昼ワイドが、放送内容を一斉に変更し「岡田有希子自殺」の特別編成対応となり、夕方のニュースに引き続いて報道を続ける総力戦となり、NHKですら「夜7時のニュース」「ニュース9」などで追随した。

1985(昭和60)年に起きた日航ジャンボ機墜落事故以来、異例の「ブチ抜き報道体制」となった。

新聞各紙も、主要夕刊二紙(夕刊フジ・日刊ゲンダイ)がほぼ全面で岡田自殺を報じ、翌朝の朝刊では「一部を除いて」ほぼ全紙が社会面などで詳細に至るまでを伝えた。

そうした中で唯一、朝日新聞系列の報道機関は、敢えて放送を差し控える動きに出た。

朝日新聞本体では、既に岡田の自殺未遂の時点で詳細は掴んではいたが「岡田有希子個人に関する情報が不足している」との判断から、記事掲載を見送る方針で一致していた。

その後の自殺を受け、方針は変更となり翌日の朝刊に記事を掲載する事で決定はしたが、ある時点を境に記事は最小限に止める判断が下された。

加えて、同日夜10時~放送のテレビ朝日「ニュースステーション」でも、他局が岡田自殺で一色となる中一切放じず、番組終了間際にMCの久米宏が「連鎖反応を起こす心配があるので、今日は自殺の報道を控えました」と言う名言を残し、敢えて岡田自殺のニュースに触れない姿勢を示した。

ではなぜ、朝日系列の報道機関は、岡田有希子自殺の「事実上の報道自粛」に踏み切ったのか?

数年前、私は元朝日新聞の記者で現在はWEBライターに転身したU氏と言う方から、その経緯を聞かされた事がある。

【・・・当時築地(東京本社)の社会部で、岡田有希子の自殺に関する全国紙面向け記事作成は進められていました。

彼女が名古屋出身だったので、名古屋本社の社会部や遊軍に応援を頼んで彼女の来歴を調べていたのですが、夕方名古屋の遊軍記者から「名古屋市内でユッコ(岡田)の後追い自殺が出たらしいので、そっちへ外れる。」と連絡が入りました。

そしてさらに30分後、名古屋本社の社会部から「三重県(いや岐阜県だったかも?)で自殺未遂で運ばれた男性が救急隊員に『ユッコ(岡田)の後を追った』と言ったそうなので『裏付け取材』をする。」と連絡があり、築地の社会部はひっくり返りました。

当時社会部デスクの〇〇さん(実名なので差し控える)は「もし岡田(有希子)の記事がデカデカと出たら、一体何十人・・・いや何百人の後追いを生むか解らない。我々は『自殺を誘発させる片棒を往う』事をやるべきではない。」として、記事は掲載するも、最小限の事実を列記するのみと方針で、記事の差し替えが行われました。

実は当時、たまたまと言っては語弊がありますが「ニュースステーション(Nステ)」の打ち合わせ担当ADの〇〇さん(実名なので差し控える)が来られていて、その様子を見てすぐテレ朝へ報告したらしいんです。その時テレ朝では、岡田自殺に関する特集が組まれ、内容チェックの最終段階で、MCの久米宏さんもその事実は知っていたはずです(未だ口は割っていないが)。

電話連絡を受けたNステ・ディレクターの〇〇さん(実名なので差し控える)は、すぐ上層部へ報告し「朝日新聞から、東海地方で岡田有希子の後追い自殺が発生との情報がある。この現状で岡田自殺の放送は控えるべきだ。」と進言されました。

当初テレ朝の上層部では「しょせん一時期の事だから大したことない。視聴率にも影響が出るから、今のままで行けばよい。」との姿勢でしたが、その直後に大阪朝日放送の報道部から「ユッコ(岡田)の後追い自殺が大阪でも出たらしい」と一報が入り上層部は急遽Nステ関係者を招集し問題の岡田自殺の特集内容をチェックします。そして、Nステ放送直前の土壇場になって、岡田自殺の放送取り止めとした通達がMCの久米宏さんをはじめ関係者に伝えられたのです。

もし朝日やNステが他紙や他局の後追いをして岡田の自殺報道をしていたら、一体何人の人たちの命を奪ったろうかと想像するに戦慄を覚えます。その後の事態を見た者として言える言葉なのですか・・・】

                  (元朝日新聞記者・現WEBライターU氏の証言)

「ユッコ・シンドローム」と呼ばれる若者の岡田有希子の後追い自殺は全国に広がった。

数々のウェブメディアを調べてみると、岡田が自殺した後一か月で30人以上が命を絶ち、明らかに岡田の後を追ったとされる自殺者数は、100人を超えると言われている。

特に15~25歳の若年層の自殺を誘発したと言われ、1986(昭和61)年度の若年層自殺者数が過去最高の800人となったのも「ユッコ・シンドローム」の影響とする見方がある。

こうした状況に、芸能界が動いた。

岡田が始めてレギュラーとして出演した現テレビ東京の「ヤンヤン歌うスタジオ」では、4月20日分放送で、彼女を妹のようにかわいがっていた近藤真彦中森明菜が出演し、岡田との思い出話を語ると共に若い視聴者たちに「自殺は絶対ダメ」と訴えかけた。

「サン・ミュージック」所属の先輩タレント・森田健作(現千葉県知事)は、4月21日のCX朝ワイド「おはよう!ナイスデイ」に生出演し、時折涙声になりながら若者に後追い自殺を止めるよう訴えかけた。

国も、この事件を契機に若者の自殺防止対策へと乗り出す訳だが、今なお年間800人近くの若者が命を絶つ現状は変わっていない。

知人の精神科医は「若者にとって、岡田さんの死が自身に取り付かれた何かを振り払い、リセットするかの様に見え、羨ましく思えたのだろう。死が自分を新たな可能性へ導いていると考える若者も多く、それが岡田さんのセンセーショナルな最後で一気に広まったように思える。」と語っている。

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岡田有希子「自殺の真相」を追い続ける人達

引用:https://twitter.com/taniken0621/status/99253759160…

岡田は去年(2018年)弔い揚げの年(三十三回忌)を迎え、遺族が集まり彼女を偲ぶことは二度とない。

実母は岡田が二十歳の誕生日を迎えた年に離婚その後精神疾患を発症して数年前に他界した。

実父と一人居る姉も、メディアの執拗な追及に嫌気が差し、現在消息は要として知れない

だが死後33年目(2019年)の4月8日も、岡田が眠る愛知県愛西市(旧海部郡佐屋町)の成満寺や四谷の旧「サン・ミュージック」前自殺現場には多くの岡田ファンが集まり、彼女の冥福を祈りながら、思い出話に花を咲かしている。

そして、芸能記者や新聞記者の中には、今なお岡田有希子の自殺の真相を追い続ける者たちが少なくない。

何時もお世話になってる元大手芸能雑誌編集長を務めたWEB芸能サイト主催者のV氏も、その一人である。

入社三年目の春に岡田の自殺と遭遇したV氏は、それ以後のメディアの喧騒に目もくれず、独自の視点から彼女の死の真相を追い続けて、たまにこの件に関して逆取材を受ける立場でもある。

岡田の死から34年目の祥月命日、V氏に都内某所で話を聞いた。

【(岡田有希子の)自殺未遂の第一報を受けたのは、33年前の未明だったかな。

『ユッコが自殺未遂で都内の病院に担ぎ込まれた』って一報を受けて、泊りだった私ら若手三人がタクシーをすっ飛ばして北青山の病院へ向かったけど、その時既にユッコは治療を終え、四谷の事務所へ担ぎ込まれたって知ったんだ。

メディアで報道されてるユッコの自殺未遂発覚は早朝って言われているけど、実際は夜中じゃなかったかって?

と言うのも、北青山の病院に駆けつけたのが朝5時前で、その時ユッコはもうサンミュージックへ向かったのだから、病院での治療が1時間半として、実際にユッコの部屋にスタッフが入ったのは2時前後、そして周辺住民から東京ガスと警察に連絡が行ったのは1時過ぎが妥当じゃないかって思うんだ。

で、ヘロヘロになって会社に帰って来たのは8時過ぎ。

入れ替わりで先輩達が周辺取材へ出掛けて行ったんだけど、別のチームが次号でユッコの特集を組む予定だったんで『ユッコは当面無理かなぁ』何て話をしている内に、先輩の一人から電話が掛かって『サンミュージックから女性が飛び降りた、ユッコかもしれない!』と聞かされた途端事務所はパニック状態。すぐデスクが、私ら三人と事務所の女性スタッフを残して、全員に四谷へ向かうよう指示を出したんだ。

そして、デスクは私達に対して『万一に備えた体制を敷いておくように』と言葉を掛けた。

要するに『ユッコ追悼特集の記事準備に入れ』と言う指示だった。

取材に出た第一陣が帰って来たのは、夕方の5時過ぎで、中には目を真っ赤に腫らした若手のユッコファンだった記者も居て、凄く可哀そうだった記憶があったね。

それからと言うもの、編集関係は殆どユッコ一色で埋められ、その内いわゆる「後追い自殺」の話も入って来て、何だか事務所の中が陰鬱な雰囲気で充満していく様子が分かるのに時間は掛からなかった。

『これじゃやってられない』ってもんで、ユッコの納骨が終わった6月の終わりに、デスクが『慰労会』と銘打って都内で大どんちゃん騒ぎ大会をやってくれて、初めて何かから解放されたって思ったね

ところでユッコの自殺を受けて、オレはある今ではビッグネームになってしまった当時アイドルの現タレントとの取材でのある話が引っ掛かっていた。

その彼女は清純派として売り出したが、その後一転してバラエティでの気候が目立ち、芸風の代わり様に『何かあったのでは?』とウワサになってた人物だ。

そこで私も彼女を取材しようとようやくインタビューへ漕ぎ付けたのだが、「絶対記事にしたり会社内に報告しない」と言う条件で、いわゆる「アイドル性接待」の事実を語られたんだ・・・あまりに衝撃的だったねぇ~怖くて記事になんか出来ないよ。

そういうことがあって、オレはユッコの自殺を独自の視点で追っていく事になる・・・無論会社の仕事とは別でね。

当時メディアで踊ったのは、やれ失恋だの売れすぎてスケジュールに追われて鬱っただのと色々あったけど、その中で俺が最も注目したのは、北青山の自宅で、自殺未遂の前にユッコが記したとされる遺書の存在だ

実はその内容は、当時の相澤社長(秀禎氏・故人)とユッコの両親・姉しか内容を見ていないモノだが、永くその存在は語られるも所在については要と知れなかった。

ところが2年近く前になって、ユッコの遺書を相澤社長(秀禎氏・故人)が長く所有し、数年前外国人アイドルコレクターと称する人物に数百万円で譲渡していた事が、各ネットメディアで明らかとなったんだ。

オレは、ユッコの遺書を相澤氏が持ってる事は10年以上前から知っていて、幾度となく内容について聞き出そうとあの手この手を使ったが、最終的に聞き出すことは出来なかった

実は数年前、ユッコの姉があるメディアとのインタビューで『ユッコの遺書の内容が両親の離婚の引き金となった』と語ったと聞いた事があり、オレは今は要と知れないユッコの遺書の内容を想像出来る様になってきた。

そんな中、オレの捜査線上(格好つけてるなぁ(笑))に二人の人物が浮かび上がって来た。

いずれもユッコの作曲やプロデュースに関わった人で、Bと言う作曲家とプロデューサーのF氏なる人物だ。

ユッコの芸能界時代の関係者からの証言で、ユッコが生前B氏やF氏からお気に入りとされ、パーティや個人的な飲み会?に良く誘われていったとされる。

それは、相澤社長(秀禎氏・故人)の自宅を独立して以降、回数が増して行き、中にはマネージャーですら知らない会合にも出席したとされている。

ユッコとB・F両氏との関係の有無については、今なお確証は得られていない。

しかしB・F両氏を巡っては、過去「アイドル性接待」に関してウワサが上った人物とされ、それがきっかけで芸能界を引退した元アイドルが匿名で証言したとの記録もある。

だがB氏は10年近く前に鬼籍に入り、F氏は介護施設に入居している。

F氏の家族に音楽関係の取材と銘打ち2年前面会を果たしたが、既に記憶はおろか会話にすら不自由する状態で、ユッコの真相を質す状態では無かった。

真相を確実には拾えなかったが、こうした話は何れオレが死ぬ前にまとめてどこかで残しておきたいと考えてる。】

「悲劇の少女」から「永遠の18歳・伝説の歌姫」へ

引用:https://www.pinterest.com/pin/783556035144183406/

 

その衝撃的な最後から、岡田有希子は何時しか「悲劇の少女」「運命のアイドル」なる言葉が付いて回る様になった。

しかし数年前から、ファンや芸能界で岡田をリスペクトする動きが顕著とってきた。

当時芸能界で同期だった南野陽子は、今も慕われる岡田について「誰かと結婚した訳でもない、劣化したとも思われる事もない、絶対に裏切らない、永遠の18歳だからでは」と語った。

多くのファンにとって、岡田は「永遠の18歳」であり「伝説の歌姫」として、今なお記憶の中で生き続けている。

前出のV氏はこう語った。

彼女はルックスだけでなく、本当に歌も上手くて、もし生きていたらレコード大賞に間違いなく手が届いただろう。

そして何より、芸能関係者・ファンと分け隔てなく交流したことも、今なお彼女が慕われ続ける理由の一つだと思う。

ユッコが「永遠の18歳の歌姫」であり続けることが、さらなる魅力を掻き立てているのだろう。

もし今、ユッコが生きていたらどうなってただろうか?成長した子供と一緒に「くちびるnetwork」や「花のイマージュ」を歌ってただろうか・・・ただ悔しくてならない。】